立ち止まった日にあったこと
長く働いていれば、この仕事を続けられるだろうかと立ち止まってしまう日が訪れることもあります。自分にとってのその日は、大きな注文をうまくさばけずに終わってしまった、忘れられない一日でした。
うまくいかなかった原因を並べてみても、その日はどれもただ自分の力不足のように見えていました。これまで積み上げてきたはずのものが、急に薄いものに感じられてしまったというのが正直なところです。
翌朝までのあいだ、この先どうしていくのかという問いだけが、ずっと頭の中を回り続けていました。答えを出そうとすればするほど、考えが同じところをぐるぐると回り続けてしまったように思います。
結局その日は答えを出さないままにして、いつもよりずいぶん早く休むことにして一日を終えました。決めないという選び方もまた一つの答えなのだと、ずいぶん後になってようやく思えるようになりました。
戻ってこられた理由
翌日に店へ向かうことができたのは、何かが解決したからではなく、仲間の顔が浮かんだからでした。自分がいない厨房の景色をふと思い描いてみたとき、自然と足がそちらへ向いていたように思います。
あの日店に着くと、先輩が普段とまったく変わらない調子で声をかけてくれたことをいまも覚えています。何も尋ねずにいつもどおり接してくれたということが、あのときは思いのほか大きな助けになりました。
その後、気持ちが少し落ち着いてから、あの日のことを少しずつ人に話せるようになっていきました。言葉にして誰かに聞いてもらうと、その出来事の大きさが不思議とだんだん収まっていったのです。
専門学校で学んだ資格に向けた知識や基本が、結局はそのときの立て直しを静かに支えてくれました。料理人としていつでも戻れる場所があるというその事実そのものが、静かな支えになっていました。
まとめ
あの日なぜ厨房へ戻ることができたのかという問いに、はっきりとした答えを出すことはいまもできそうにありません。それでも、あのとき仲間の顔と、いつもどおりに迎えてくれた場があったことだけは確かだったのだと思います。
ときに立ち止まってしまう日があること自体は、長く働いていれば誰にでも訪れるものなのだろうと感じられます。大切なのは一人で抱え込まずに、話せる相手や戻れる場所をあらかじめ持っておくことなのだろうと思われます。
あの日を越えてくることができたからこそ、いまは同じように立ち止まっている人へ声をかけられるようになりました。誰かの隣にいつもどおり立てるようになるということが、いま思えばこの仕事の静かな喜びの一つになっています。